大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和50年(オ)1045号 判決

名古屋市東区東外堀町一丁目一番地

上告人

伊藤静男

被上告人

右代表者法務大臣

福田一

右当事者間の名古屋高等裁判所昭和四九年(ネ)第五二七号軍備保有軍事費支出等禁止(戦争公害差止)請求事件について、同裁判所が昭和五〇年七月一六日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があつた。よつて、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人の上告理由について

上告人と被上告人国との間に具体的な権利義務に関する争訟が存するものとはいえないから本件訴は不適法として却下を免れないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は失当である。 論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、注文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江里口清雄 裁判官 天野武一 裁判官 高辻正己 裁判官 服部高顯 裁判官 環昌一)

(昭和五〇年(オ)第一〇四五号 上告人 伊藤静男)

上告人の上告理由の要旨

第一点 原判決には民訴第三九五条一項第六号に該当する違背がある。

第二点 原判決には憲法九条の解釈の誤り、憲法三二条、最高裁の判例違背、延いては憲法三一条、三〇条、二九条、十一条、十二条、十三条、十七条、十九条、二五条、八一条、九七条、九八条、九九条に対する明白な違背並に判決に影響を及ぼすこと明かな法令の違背がある。

尚、右一、二点に該当する事実並に理由の詳細は最高裁判所規則の定むる期間内に書面を提出して陳述する。

以上

上告人の上告理由

目次

第一、まえがき

一、本訴提起の意義について

二、真理の灯りとしての憲法九条

第二、本論

一、総論

(一) 国家と戦争、戦争と個人

(二) あたらしい憲法のはなし

二、各論

(一) 原判決は憲法三二条に違背する

(イ) 裁判所法第三条の意味

(ロ) 戦争惨禍の危険発生時期

(ハ) 具体的現実的利害の対立、危険性の存在

(ニ) 憲法三二条の最大の意義

(ホ) 良心と憲法九条下の自衛隊その争訟性

(ヘ) 税金支払者の権利と軍事費支出

(ト) 国家賠償法にも基因する本訴の争訟性

(二) 原判決の違法

(三) 憲法七六条三項の違背

(四) 憲法九条の意義並に解釈についての違背

第三、裁判所の戦争防止責任と憲法八一条違背

第四、結論

第一、まえがき

一、本訴提起の意義について、

「蜘蛛の糸で吊された原爆」「われわれはたつたいま、人類を、地球を破滅させる危険の上にあぐらをかいているのである」等世界の有識者の言の如く「人類が今日、その一〇〇万年の歴史のどの時代にもなかつた程完全な絶滅の瀬戸際にいることは明白な事実である」(ジヨン・サマヴイル「平和のための革命」)。従つて、現在吾々人間一人一人にとつての最大の課題は、この戦争を如何にして防止するかにつき、各人夫々の置かれた立場で、真剣に考え最善の努力をすることである。本訴は訴訟を通じて“戦争か平和か”“財産か生命か”“軍備は、戦争は誰のために、何のためにあるのか”の問題を堀り起し、上告人ら日本国民が、政府の行為によつて再び戦争の惨禍を蒙ることのないようにとの念いのもとに、他面、政府の違憲行為により傷ついた法治国の国民である上告人らの良心の司法的救済を仰ぐ意味に於て敢て提起したものであるが、原審並に第一審に於ては本訴提起の意味(別紙訴状第一項)が理解されているとは到底理解されないので、この点をいささか冒頭に釈明したい。

(一) 「明日知れぬ身の魂の叫び」の意味-〇(ゼロ)の世界

明日知れぬ身、明日の生命もわからない自分自身、これは何も上告人が現に重い病いの身であるという意味ではない。現在今日は至極元気であつても、明日の命はわからないという絶対的真実を自覚した、真理の世界に自分自身を置て、という意味であり、その絶対的真実の世界に於ての叫び、真理を求める声という意味である。

上告人は、昭和四六年一〇月、母の死に直面して、自身も半ば死の世界に引づり込まれた境地に至つた。そして、人間の死の川の流れは、前途にあるものではなく、自身のすぐ横を流れているものだと悟つた。例えて云えば、生の世界を十とし、死の世界を一とすれば、その間は〇の世界である。〇の世界に立てば、死の川の流れ、死の世界は常に横に接着して流れ、あることを自覚させられる。人間は百も百二十も生きるかも知れない。然し、今日、明日死ぬかも知れない。この判りきつたこと、然しこのことこそが絶対的の真実である。従つて吾々人間は、日々その覚悟で生きる必要がある。自分自身が家族が或いは他の人が今日、明日死んでも悔いのないように、現在を生きる必要がある。〇の世界に住めば自ずとその心境にならざるを得ない。他面、十の世界に住めば、〇の世界を境いにして中間分離帯のある道路の片側を進んでいるようなもので、他の片側の死の川の流れは、死の世界は目に見えず、それは常に前方に、前途に在るように錯覚する。そして常に明日は未だ生きている。未だ生きているということを前提として考え、生活する。従つて死の現実に直面したとき驚く。要するにこの十の世界では人は恰も自己が永生の身であるかの如く錯覚して生きている世界であり、いわば虚構の世界である。其処には真理の光りはない。他面、〇の世界は無の世界、空の世界にも通ずる。煩悩は消失し、真如の月、真理の光が輝く。そして事物の真相をみてとることができ、良心に従つて行動しうる。

甚だ不十分ではあるが、以上の説明で、上告人の「明日知れぬ身の魂の叫び」の意味は概要御賢察願えるものと考える。要は、この〇の世界に立つて、真如の月照す世界に在つて、本訴を理解し、真理に照し雲りなき良心に従つて裁判を仰ぎたいということである。

(二) 「健康な良心を持つた日本人を代表して提起するものである」の意味「健康な良心」とは、良心の大衆的惰眠(エーベルハルト)に対比して使用したものであり、未だ惰眠していない良心という意味である。催眠術師が個々人を催眠術をかけて眠らせる如く、政府と権力者は時として一般大衆の良心を眠らせ操縦するものである。

嘗てのナチスが国民を戦争にかりたてた場合がこの顕著な例とされる。而して催眠術師のかける催眠術と権力者の施す良心の大衆的惰眠術との差は、前者が極めて短時間になされるのに対し、後者は徐々に徐々に長年月をかけて施されるということである。従つて、後者に於て恐ろしいのは、自分も他も惰眠におちいることに気付かないということである。良心の麻痺が極めて徐々に徐々に施されてゆくということである。現に上告人自身も、憲法九条下の軍備(自衛隊)の増強に於て、このことを感ずるのであり、辛うじて僅かに残された良心の健康な働きに於て、これが排除を求める人々の代表となつたつもりで、クラスアクシヨン的意味で、訴訟を提起するという意味である。

二、真理の灯りとしての憲法九条

日本国憲法第九条は、人類未曽有の原爆被害により覚醒した日本人が、人類史上初めて打立てた“生命至上主義”の金字塔であり、真理の灯りである。このことは憲法審議録(甲八号証)を一読すれば明らかであり、核兵器の発達した今日一層その光彩を放つものである。世界に魁け、これが実現に邁進すること、それこそわれわれ日本人に課せられた世界平和への栄光の道であり、他面、戦争犠牲者の霊に報いる唯一の道でもある。而も、これが完全実施は日本民族破滅の道ではなく、逆に日本民族がこの地球上に生き残りうる唯一の道である。

然し、遺憾ながら、目下の日本はこれに逆行、転進し、日本民族破滅への道を驀進している。そして日本が被告国が目下行つている軍備の増強は、ミサイル誘発機を備えつけているに等しい行為である。戦争公害の危機は、生命の危機は刻々迫つているのであり、現時点に於てこれを歯止めせずして何時の日に歯止めできるであろうか。

第二、本論

一、総論

(一) 国家と戦争、戦争と個人

―国家と個人は戦争を通じて最も厳しい利害紛争の場に立たされる―

憲法は前文に於て「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し……この憲法を確定する」と明規しているが、戦争ほど厳しく、国家と個人、被上告人と上告人とを最も具体的、現実的な利害の対立紛争の場に立たせるものはない。大平洋戦争は上告人とその家族にも生別、空襲による傷害等現実的、具体的な被害をもたらしたが、何百万の人々は戦争の犠牲となつて死に、何十万かの人々は傷つき、戦後三〇年たつた今日現在、一般民間死傷害者は被告国から何らの補償、援助もされず傷痕に呻吟し続けているのである。そして憲法は、その被害を、惨禍をもたらした戦争は、政府、被告国の行為によつて起きたものであつたことを、その前文に於てハツキリ確認しているのである。

戦争と個人、戦争の惨禍

次に掲記する事実は、如何に戦争が個人に対して悲惨な、残酷な被害をもたらしたかの典型的事例と云えよう。

A 遺言状(日本戦没学生の手記第一集「きけわだつみのこえ」より)

遺言者鈴木君は、上告人とは第八高等学校時代の同級生であり、昭和一九年一〇月、東大法学部入学直後に共に学徒出陣で豊橋予備士官学校に入隊したのであるが、同君は昭和二〇年八月六日原子爆弾のため負傷、八月二五日午後九時三〇分、大野陸軍病院にて二〇才の若さで死亡したのであり、遺言状は死期を知つた同君が死の三〇分前に父母宛に残したものである。

遺言状(甲五一号証)

父母上様、親不孝者ノ自分デシタガドウカ御許シクダサイ。コレカラ自分ハ親ニ孝養ヲ尽クソウト思ツテイマシタガツイニ斃レマシタ。自分ハ貧シイ中ヨリ第八高等学校、東京帝大へ進マセテ頂キ常ニ感謝シテ参リマシタ。自分ハ学生時代カライロイロ父母上様ニ御心配ヲカケマシテ、コレカラ孝行スル時代ニハイラントスル時斃レルノガ残念デス。姉上様ヤ妹達ハオ嫁入リモ思イトドマリ国民学校児童ノ教育ニ当タリ、カタワラ良ク父母上様ノ手伝イヲシテクダサイマシタ。自分ハ何トモ御礼ノ申シヨウモアリマセン。父母上様ハ晨ニ月ヲ仰ギタニ星ヲ戴キコツコツト御働キニナツテ自分ヲ大学エマデ進マセテクダサレ本当ニ父母上様ニ苦労バカリカケテ何ノ御恩返シモデキズニ死ンデイク自分ハ残念デ御詫ビノ申シヨウガアリマセン。シカシ父母上様、自分ノ身ハ死シテモ魂ハ必ズ仏前ニテ父母上様ヤ姉上様、妹達ヲ常ニ見護ツテイマス。魂トナツテ父母上様ニ孝養ヲ尽クシタイト思ツテイマス。ドウカ父母上様、姉上様、妹達ヨ泣カナイデクダサイ。魂トナツテ常ニ皆ト一諸ニ働キ皆卜一諸ニ食事ヲシ皆ト共ニ笑イ皆ト悲シミヲ共ニシマス。コレカラ秋ニハイリ百虫ノ声ヲ聞クニツケ、冬トモナツテ落葉ノ寂シイ林ヲ見ルニツケテモ決シテ泣カナイデクダサイ。ソシテイカナル事態ニ遭遇スルモ身体ニ十分注意シテ断固トシテ事ニ当タリイツマデモ達者デオ暮ラシクダサイ。父母上様、去ル六日ノ原子爆弾ハ非常ニ威力ノアルモノデシタ。自分ハソノタメニ顔面、背中、左腕ヲ火傷イタシマシタ。シカシ軍医殿ヲ始メ看護婦サン、友人達ノ心ヨリナル手厚イ看護ノ中ニ最期ヲ遂ゲル自分ハコノ上モナイ幸福デアリマス

鈴木実

昭和二十年八月二十五日二十一時

父母上様

二〇才の若さで、自己に責任なくして死んでゆかねばならなかつた鈴木君本人の衷情、この遺書を読まれた両親、姉妹、の心情は如何ばかりであつたろうか。上告人も同君の顔を思い浮べつゝ涙なくしては読み得ない。これが戦争の実体であり、個人にもたらす具体的現実的の被害である。

B 民間戦災傷害者の三〇年(別紙戦争の語り部として) (甲五二号証)

「あれから三〇年、私たち戦災傷害者には終戦はない。肉体の痛みと心の痛みと生活の苦しさとに喘ぎながら生きてきました。各地に空襲記録の会が誕生し、立派な記録集が発刊されました。悲劇を語りつぎ、永久の平和を呼びかけておられますが、戦災傷害者の苦しみは、怨念はどこにもなく、まして補償問題、援護問題にはふれておられません。政府は国との身分関係がない、公務性がない、遂には「戦災者を救つていたら国の財政がもたんよ」とまでいわれ、三〇年何の援護もなく忘れられてきました。」

これが戦争傷害者の実情である。戦争が個人にもたらす被害であり、国の被害者に対する態度の現実である。これほど重大な具体的、現実的な利害の対立、紛争が国家と私人間に於て他にあるであろうか。そしてこれによつて判明することは、上告人ら一般人にとつて戦争は、戦争の被害を受けてからでは遅いということ、国は何らの補償も、援助もしてくれないということ、従つて、戦争は何としてもこれを未然に防止する必要があるということである。

C 国家と戦争

戦争は、被告国、政府によつて上告人ら一般私人に加えられる惨禍である。このことは憲法が明規している。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起らないようにすることを決意し」と。従つて、戦争は一般国民に対する政府、国による最大の不法行為である。戦争を起す者は国家であり、その惨禍、被害を蒙るものは上告人ら一般国民である。そして、国民は、政府が再び戦争を引起すことのないために、惨禍の、被害の予防策、予防の手段、方法として憲法九条を設定し、被告国の武力、戦力の保有を禁止し、交戦権を否認した。

(二) あたらしい憲法のはなし(甲四号証)

昭和二二年文部省が中学生の教科書用として発行した「あたらしい憲法のはなし」には、戦争と個人、戦争と国家に関連し、憲法九条制定の趣意が次のように説かれている(一七~一八頁)。

「みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんや、にいさんを送りだされた人も多いでせう。ごぶじにおかえりになつたでせうか。それとも、とうとうおかえりにならなかつたでしようか。また、くうしゆうで家やうちの人を、なくされた人も多いでせう。いまやつと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があつたでせうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこつただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまつたのは、まことに残念なことではありませんか。そこで、こんどの憲法では、日本の国が、けつして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いつさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の抛棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかし、みなさんは、けつして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行つたのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」。

この被告国の文部省発行の教科書で教えられた中学生が、その後の被告国の発言と、現在の自衛隊の存在をみて如何に感じているのであろうか。戦争中に国民を欺した政府、国の言動は、戦後も引続き存続していることがこれによりハツキリ実証されている。そして再び政府の行為による戦争の惨禍えの道を進んでいる。

二、各論

(一) 原判決は、上告人の裁判を受ける権利を奪つたものであり、憲法三二条に違背する。

「人はすべて憲法又は法律によつて与えられている基本的な権利を侵害する行為に対して権限ある国内裁判所による有効な救済を受ける権利を有する」(世界人権宣言八条)

1 憲法は三二条に於て「何人も、裁判所に於て裁判を受ける権利を奪われない」と明規し、上告人の被侵害権利の司法的救済を受け得る権利を保障している。昭和二四年三月二三日の大法廷判決に於て、栗山裁判官は「この規定は、マグナカルタ第四〇節と同様、司法を銭で売つたり、裁判を勝手に拒否して、裁判所による正当な裁判上の救済の途を閉すことをしてはならないという保障である。……管轄権があるのに管轄権がないとして裁判をしないならば、裁判を拒否するものであつて、憲法三二条に適合しない結果となる」と述べておられるが、本件原審の如く、事件性、争訟性があるのに、事件性、争訟性がないとして上告人の控訴を棄却乃却下するのは、まさに右に云うところの裁判を拒否するものであつて、明らかに憲法三二条に違背するものと謂わねばならない。

2 本訴における事件性、争訟性の存在上告人の本訴に事件性、争訟性の存在することに就ては、上告人は原審の昭和五〇年四月二二日付の準備書面第二項で特に上告人の生命、身体権と軍備、軍事施設とのかゝわりあいに於て詳論しているところであり良心の侵害、納税者の権利侵害に就ても、訴状並に原審の準備書面で相当詳細に陳述しているので、それをそのまま本上告理由に於ても援用するが、尚その外に本書に於て補足説明したい。

原審の認めた本訴の請求の趣旨は、

「一、1 被控訴人は控訴人に対し、軍備を保有してはならない義務のあることを確認する。

2 被控訴人は控訴人のために自衛隊等(軍備)を増強してはならず、縮少廃止しなければならない。

3 被控訴人は控訴人のために、日本国内に核兵器(核探知レーダーを含む)、核爆弾を保有したり、その施設を設置してはならない。

4 被控訴人は控訴人のために日本国内に、核兵器(核探知レーダーを含む)、核爆弾の持込み、その施設の設置を許してはならない。

5 愛知県小牧市所在の航空自衛隊小牧基地並びに愛知県春日井市高蔵寺町所在の高蔵寺弾薬庫はこれを撤去せよ。

6 被控訴人は控訴人に対し本件請求の趣旨追加補正書の送達の日の翌日である昭和四九年一二月二四日以降右撤去の日に至るまで一日金三、〇〇〇円の割合による金員を支払え。

二、1 被控訴人は控訴人に対し、控訴人の支払う税金を軍備に使用してはならない義務のあることを確認する。

2 被控訴人は控訴人のために軍事費年間一兆九百三〇億円の支出を増加してはならず、削減、廃止しなければならない」

であり、

訴状(第二項)記載の本訴の請求権は、

一、基本的人格権侵害予防、排除請求権

(一) 生命権侵害予防請求権

(二) 良心の権利侵害排除請求権

二、税金支払者の権利侵害排除請求権

で、その侵害の度合いがもはや上告人の受忍の限度を超えているということである。

(イ) 裁判所法第三条の「法律上の争訟」の意味に就ては、従来判例は、具体的な権利義務に関する法律的紛争を含まないと述べているが、本訴が上告人個人の具体的権利義務に直接密接に関係があるということ、而も被告国の行為、その設置した軍事施設の存在により、上告人の憲法上保障された最も基本的な権利、即ち前記生命、身体、良心、納税者の権利が侵害され、侵害されようとしていること、而もその侵害の程度が到底受忍し得ぬ限度に立至つており、これが排除乃至予防を現時点に於て裁判所に司法的救済を求めることは、遅きに過ぎても決して早きに過ぎたものでないこと、而して被告国の現に保有する軍備、軍事施設及び今後増強保有する虞れの多分にある軍備と上告人の保有する前記権利との間に直接的、具体的、密接的な利害関係が発生しており、上告人が本訴請求についての適格性を有することに就ては、上告人は夫々の権利を項目別に別紙訴状並に控訴審に於ける別紙陳述書で相当程度説明したつもりである。而して、これをしも原審は、「私人としての原告と被告国との間の具体的、現実的な利害の対立を前提とし、その紛争の司法的解決のために本訴を提起したものでない」と説示されるが、この説示は上告人に「鷺を鴉と云いくるめる」の諺を想起させるものがある。訴状並に原審準備書面を原審裁判官は本当に読まれたかどうかにつき疑問すら感じさせるのである。そして原審は「上告人の求めるところは、国民の一人として日本国政府に防衛政策の転換を迫る点にあることを看取るに難くない。従つて争訟性、事件性を欠く」とも云われるが、この説明によると何か国民の一人である上告人が被告国に結果的に被告国が防衛政策の名のもとにしていることの転換を迫るようなことは凡て事件性のないという意味に受けとれるが、これは全くの論理の飛躍であると謂わねばならない。原審のこの説明の仕方は、第一審の判決理由中にも認められ、これが誤りに就ては、上告人が原審昭和五〇年四月二二日付準備書面第一項で「原審判決の基本的誤り」と指摘して詳説しているところであるが原審はこの項を読まれたのか甚だ疑問に思えるのである。若し読んでおられるならば、右のような判示は到底でてこない筈である。

又原審は、上告人が訴状の第一、本訴提起の意味の項で「本訴は多数の心ある健康な良心を持つた日本人を代表して捉起するものである」と記載した点を捉え、争訟性を欠く資料としておられるが、被告国の違法行為による侵害が日本人全体に及んでいると主張している本訴に於て、右の言辞がどうして争訟性を欠くことに通ずるのか全く理解できないのである。被害の範囲が全国民的の範囲に及んでいると考える際に於て、未だこの被害の認識を持ちうるだけの健康さを持つた良心を有する日本人、被害に気づき、この違法行為を除去せねばと良心的に考えている人、そういう日本人を代表する意味に於て提起することが、どうして事件性、争訟性に結びつくのか全く理解に苦しむのである。

尚、原審は「第一審訴状の請求の趣旨は抽象的にとどまつている」といわれるが、軍備(軍事施設)其物の存在が上告人の生命、身体に具体的、現実的に危険性を有していると考える場合、憲法九条のもとでの法治国の弁護士としての良心を傷つけていると考える場合、その保有者の被告国に対して、その廃止を求めるのは決して抽象的な訴とは云えない。又、軍事費支出禁止の趣旨も何ら抽象的のものではない。加、原審も指摘される通り、裁判所が理解され易いように、上告人は前述の如く、請求の趣旨をより具体的に補足しており、原審のこの点に対する批難は到底当らない。

(ロ) 戦争惨禍の危険発生時期を何時と認識するか。

戦争は、被告国によつて起されるもので、その戦争による被害、惨禍ほど上告人の生命、身体にとつて具体的、現実的に恐ろしいものはない。このことは総論で戦争の惨禍として掲記したが、その被害者に対して、戦後三〇年たつた今日現在なお被告国は何らの賠償も、補償も、援助もしないのである。これが現実である。原審は、戦争と上告人個人との関係に於ては、被告国の引起す戦争によつて上告人が死傷した場合、賠償請求を通じてはじめて上告人と被告国との間に具体的、現実的な利害関係の対立が発生し、事件性、争訟性が存在するといわれるのであろうか。憲法一七条、国家賠償法を通じて、はじめて争訟性が発生するといわれるのであろうか。憲法一七条、国家賠償法は、その被害発生の予防請求権を認めない趣旨であろうか。そして裁判所は、その被害発生の予防段階では、未だ具体的・現実的な利害の対立紛争がないといわれるのであろうか。

前述のとおり、戦争被害は発生してからでは遅い、この点に就ては、訴状で戦争公害差止の特殊性として詳述している。加、被告国は戦争被害に対しては賠償請求にも応じない、予算がないというのである。

欺る戦争被害は、予防、防止以外に上告人ら国民は救われる道はないのである。それでは、これが予防、防止をなす手段、方法は、そしてその時期は何時か。

憲法は被告国が再び戦争を引起し、上告人らに惨禍を蒙らしめない手段方法として、被告国に軍備(軍事施設)の保有を禁止した(憲法九条)憲法前文と憲法九条により、被告国が上告人らに対し負うところの義務は、再び戦争の惨禍を蒙らしめない義務であり、そのために軍備を保有せず、交戦しない義務である。そして土地と人と金を軍備に使用しない義務である。

憲法は被告国が軍備を保有すること自体に過去の歴史的体験に基き、戦争惹起の危険性を認めたのである。そして、この被告国に課せられた軍備不保持の義務は、現行憲法上の最大の義務であり、憲法制定の、憲法確定の根本義にかかわるものである。憲法は、現行憲法はその為に設けられたといつても過言ではない(政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起らないようにすることを決意し……この憲法を確定する)。

他面、憲法前文、九条、一三条、二五条、三一条等により上告人に与えられた権利の最大のものは、軍備なき環境権であり「再び戦争によつては死ぬことのない権利」である。そして戦争予防策として、被告をして土地と人と金(税金)を軍備には使用せしめない権利である。

而も、憲法一二条は、この上告人らに与えられた権利は「上告人らの不断の努力によつて、これを維持しなければならない」とし、これが侵害行為に対する排除を、憲法の番人たる裁判所に訴追して、権利の救済を求めることを義務づけている。従つて、この権利の保全行為(予防排除請求権)は、憲法法上、上告人ら国民に認められた権利でもある。

上述により判明したことは、憲法は被告国の行為により戦争の惨禍が上告人らに及ぼされる危険性を、被告国の軍備保有それ自体に認めたということである。そしてその予防、防止手段として、これが保有を上告人らのために禁止したということである。従つて、憲法上の権利義務としてみた場合に於ても、被告国が請求の趣旨記載の如き軍備、軍事施設を保有し、保有せんとすることは、上告人らが憲法上保障せられた軍備なき環境権に対する具体的、直接的な侵害があり、戦争の危険、上告人個人の生命、身体の危険に直接、具体的につながる危険性をもつた不法行為である。

“戦争による生命、身体の危険性”この危険性の認識を吾々は如何にして把握し、捉えることができるか。憲法は過去の被告国の戦争歴に照して、それを被告国の軍備保有それ自体に捉えた。そしてこの国民総意による捉え方は、軍備の性質、核兵器の発達、世界の現状、止むことを知らぬ軍拡の進行状況等を眺めた時、真に正鵠を得たものであつたと謂わねばならない。

癌による生命、身体の危険性は、五感による自覚症状の現われた時では遅く、専門家のレントゲン、顕微鏡による精密検査に現われた時点に認めるのが正しい様に、戦争による生命、身体の具体的、現実的の危険性も識者、軍事専門家の証言等、裁判の審理を通じて認識すべきで、「愚者の楽園」と云われている日本の裁判所の裁判官が自己の主観的、素人判断で五感に感知しうる周囲を見廻して勝手にその有無を判断すべきことではない。被告保有の軍備、軍事施設の存在と上告人の生命、身体に対する具体的・現実的危険性の有無、利害対立の有無に就ては、現時点におけるその危険性の存在を、そしてその排除禁止の必要性を上告人は訴状、原審準備書面で詳細述べてきたが、他面、その具体的、現実的危険性の存否、そのものこそが本訴の審判の対象となるべきものであつて、それを審理しないで、具体的、現実的な利害の対立がないと一方的にキメつける原審は、正に審理を拒否するものであつて、憲法三二条に違背すると謂うべきである。

(ハ) 具体的、現実的な利害の対立、危険性の存在

上告人の居住する周辺地域に軍備、軍事施設の存在することは、上告人の居住する家の隣地に弾薬庫が設置されているのに等しい。

上告人の現に居住する家の隣地に、被告国が防衛政策の名目の下に勝手に弾薬庫を設置したり、設置せんとした場合を想定してみよう。

上告人がこの被告国の行為を自己の生命、身体に危険のある行為として、弾薬庫の撤去乃至設置の差止めを裁判所に訴えた場合、裁判所は上告人のこの訴えを事件性、争訟性のないことが明白だとして訴えを却下されるであろうか。本訴の訴えと、右隣地弾薬庫設置排除の訴えと、どれだけの差異があるであろうか。現代の科学兵器の発達した今日、核ミサイル兵器の発達した今日、上告人の周辺地域に軍事施設、軍備の存在することは、右の場合と危険性の度合いに於て些かも、否、それ以上に強度であると云つても決して過言ではない。只、前者の方が吾々人間の視覚的、五覚的にその危険性を感じ易いのみであつて、それは決して客観的、科学的に検討、調査した結果によるものではない。

僅か三〇分で、ソ連からアメリカ本土に核爆弾が飛来し得、日本は外敵の攻撃に一〇分間しか保たないと軍事専門家の云う今日、各国が核兵器開発に狂奔し、核の先制攻撃を唱え、核潜水艦は衝突し、“あわや核爆雷発射”の危険が報じられ、日本への核持込みが噂され、横田に核輸送部隊が移駐し、韓国、台湾も核兵器開発を決定し、日、韓防衛に核使用を米国防長官が言明し、核戦争の危機が訴えられ、北京の地下壕が報導されている(別紙新聞切抜甲二六乃至四七号証御参照)今日、自己の居住する周辺地域に軍備が、軍事施設が存在することは、宣戦布告なき今日的戦争を考えた時、素人の常識判断でも爆弾の上で寝起きしているようなもので、上告人の生命、身体にとつては危険この上ないと謂わねばならない。従つて、被告国が上告人の周辺地域に軍備を保有し、軍事施設を設置していること、上告人の生命、身体の安全性との間には極めて具体的、現実的な利害の対立が横たわつていることは明白である。何人も核基地や、軍事施設の視覚的周辺に居住することには本能的にも具体的、現実的危険性を感じ易いが、この場合、周辺の意味は、範囲は、現代の科学兵器からしてのより科学的、客観性を持つたもので判断されなければならない。

(ニ) 憲法三二条の最大の意義

上告人が憲法三二条で保障されている「裁判を受ける権利、侵害され、侵害されんとする自己の権利の司法的救済を受けうる権利」の最大の意義は何処に在るか。これを憲法の規定からみた場合、それは「上告人が裁判所の裁判を通じて、被告国の行為により再び戦争の惨禍を蒙ることのないように、被告国の戦争の惨禍をもたらす危険のある行為をチエツクし、排除して貰うことのできる権利」を保障したという点に見出すことができる。そして憲法は、その危険性のある最大のものを国の保有する軍備、戦力に見出し、これが保有を禁止した(憲法九条)。従つて、上告人が本訴により被告国の軍備保有の禁止を求めるのは、真に現行憲法三二条が最も期待し、そのために上告人に与えた権利であると謂わねばならない。されば上告人のこの権利行使は、この意味で裁判所に於て最大に尊重されねばならぬと信ずる。

(ホ) 良心と憲法九条下の自衛隊-その争訟性

これに就ては、別紙訴状第四項(良心の権利侵害排除請求権)で説論している通りであるが、若干補足説明しよう。

a 三島由紀夫を死に至らしめたもの

三島由紀夫を死に至らしめたもの、それは何であつたか、一言にして言えば、憲法九条下の自衛隊の存在であつたということである。彼は死を前にして叫んだ。憲法九条のもとでの自衛隊の存在、これに対する政府の欺瞞、詭弁にはもはや言葉を大切にする作家の良心からして、堪えられないと。そして日本人の道義の頽廃の元兇がここにあると(甲二号証)結局、彼は彼の全存在をもつて自衛隊の存在と憲法九条に挑戦し、これが良心的合致を企て、失敗し全存在を潰えたのである。従つて、彼を死に至らしめたもの、死に追いやつたものは被告国、政府の欺瞞であつたとも云い得るのである。

真に健康な良心を持つたもの、法治国の国民として健全な良心を持つた者ならば、彼三島の死は、その良心の叫びであつたと感じずにはいられないのである。

而して、この被告国、政府の欺瞞行為、違憲行為を匡すべき裁判所、司法権に果して遺漏は無かつたと云い得るであろうか。

b 良心的軍事費拒否の会の発足

現在の軍備、自衛隊の存在、そしてそれに支出される税金の支払いにはもはや良心的に堪え得ないとして、メノナイト・クエカーのキリスト教徒や、上告人らを中心として良心的軍事費拒否の会が発足し、憲法学者等も参画して、そして支払う税金のうち、軍事費に使用される六・四%はその支払いを拒否しようというものである。(甲五三号証)

これは、キリスト教徒としての良心と、憲法九条下の法律家の良心、法治国民としての良心に基因するものである。

現在の自衛隊の増強は、上告人らの良心を侵害し、むしばんで既にここまできているのである。

上告人らの良心との間に具体的、現実的利害の対立、紛争が発生していることは明白である。

(ヘ) 税金支払い者の権利と軍事費支出

税金支払い者としての上告人と、被告国の軍事費支出との間には、もはや具体的・現実的な権利義務の対立紛争が発生している。

この点に就ては、上告人は別紙訴状第五項、控訴状の控訴の理由第三項昭和四九年一一月二二日付準備書面第六項、昭和五〇年四月一七日付請求の趣旨、原因の補充二の(二)税金支払い者の権利の項で、被上告人の軍事費えの違憲支出がもはや余りにも尨大となつたため、単なる一般的、抽象的な関係、或いは遠くて疏遠な関係の域を超え、個別的、具体的な而も直接的で密接な経済的利害関係の対立にまで立至つていることを説明し、上告人が当事者として訴えの利益を有すること、当事者適格を具備するに至つていることを論述した。

そして、憲法三〇条の納税義務者の立場、違憲の法律に基いては納税義務は無い、従つて、軍事費支払いの義務は発生しない。軍事費は支払わなくてよい権利に基き、将又、憲法二九条の財産権保障の規定に基き、直接これら権利の侵害排除の司法的救済、紛争の解決を裁判所に求めているのである。そして、仮にそれが手続的規定を欠くとしても、憲法上の権利から直接訴求しうることは判例の認めるところである。

而も、本年に至り総評が減税斗争の一貫として始めた税金の内の軍事費分をカットする斗争は、如何に被告国の現在支出、使用している軍事費(自衛隊費)と上告人ら税金支払い者との間の経済的利害の対立、紛争が直接的、具体的な関係にまで立至つているかを実証しているものと云えよう。

(ト) 国家賠償法にも基因する本訴の争訟性

本訴の請求の趣旨一の6項に代表される請求の法的根拠は、民法七〇九条、七一〇条、国家賠償法第一条、第二条にも基因するものである。

概要以上の次第で、本訴で上告人が求めているところのものが、単に原審の判示する如き一般的、抽象的なものでなく、上告人と被告国との間に現に、具体的、現実的な利害の対立、紛争が存在し、これが司法的救済を裁判所に求めんとしているものであることは明白になつたものと思う。即ち、本訴の事件性、争訟性の存在は明白になつたものと確信する。従つて、にも拘らず、本訴を事件性、争訟性が無いとして却下された原審は、正に裁判を拒否したものとの譏りを免れず、憲法三二条に違背するものと謂わねばならない。

(二) 原判決には、民訴法三九五条第一項第六号に該当する違法並に裁判所法第三条の「法律上の争訟」の解釈を誤つた違法があり、判決に影響を及ぼすこと明白である。

1 原審判決理由の骨旨は、本訴が「上告人、被上告人間の具体的、現実的な利害の対立を前提として裁判による解決の待たれている、いわゆる争訟性、事件性を備えたものとはうけとり難い」というに在る。然し大きくみて、上告人の訴状、原審準備書面を対比してみた場合、どうしてかかる論理がでてくるのか、理由不備、理由齟齬と謂わざるを得ない。

次に裁判所法第三条は「裁判所の権限」として「裁判所は日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する」と規定している。而して原審のいう争訟性、事件性なるものが、この裁判所法に規定する「法律上の争訟」を指していることは明らかである。

然し乍ら、本件訴訟、その訴えの内容を詳細に検討するならば、本訴が争訟性を欠くとした原審は、明らかに右裁判所法にいうところの「法律上の争訟」の意味を誤つて解釈したものと断ぜざるを得ない。

即ち、原審の本訴に争訟性が無いという考え方は、チヤツプリンをして“一人を殺せば殺人で、百万人を殺せば英雄か”と皮肉らしめた思想と同一の基底に立つもので、「刃物かピストルで一人乃至数人の人間が殺したり、殺されたりする場合には、事件性、争訟性を認めるが、原爆等で何百万、何千万の人が同時に殺されるようら場合には、事件性、争訟性を認め難い」というのに等しい。端的に云えば、大事件は事件でない、大事件は裁判所の争訟外だということである。平たく云えば、余り大事件は裁判所に持ち込んで来て貰つては困るということである。大事件は裁判所の門前で閉め出す、裁判所の門内に入れないということである。

然し乍ら、前記裁判所法にいうところの裁判所の裁判の権限として規定せられた「法律上の争訟」の意味は右の如き大事件を除外する意味でないことは明白である。否、むしろ大事件であればある程、それが多くの人々にかゝわりあいがあればある程裁判所の門戸を開き、これを迎え入れて審理を尽すべき趣旨と解すべきである。後述する如く、一億国民が憲法を改正し、日本の裁判所に課した最大、最高の責務は上告人を含む一億の国民が、被告国、政府の行為により再び戦争に巻き込まれ、この惨禍を蒙ることのないように、憲法特に九条規定の違背行為を監視することにある。されば、本訴の如く被告国の右憲法九条規定を打破り、無視した違憲行為により、上告人が再び戦争の惨禍を蒙る虞れが多分に生じてきたとして、これが司法的救済を求めている本訴の如きは、真に事件中の事件であり、最も裁判所の権限として、法律上の争訟性を有した事件であると謂わねばならない。このことは現行憲法の規定の構造からして明白である。

概要以上の次第で、原判決は先づ考え方の基底に於て事件性、争訟性の捉え方を誤つて居り、その真義を誤解した違法がある。而して、この違法が判決に影響を及ぼすことは明白である。

2 次に、この理論に対しては次の反論が予想される。

大事件が事件性を具えていることはこれを認めよう。然し、本訴にいう被告の軍備の保有、増強が現実的、具体的に上告人の生命、身体の権利侵害、危険をどのようにかかわりあいを持つのかと、そして同時に上告人の良心の権利、税金支払いの権利義務とどのように具体的、現実的にかゝわりあいをもつのかと。

この反論に対しては、次の簡単な答えでもつて足りると思われる。即ち「まさに、そのかゝわりあいの存否こそが本訴審理の対象であり、訴訟物なのである」と。

例えば、煙突から出る煙と、附近住民の生命、身体とのかゝわりあいとか、薬物と生命、身体のかゝわりあいとか、軍備の持つ本質、毒性と上告人らの生命、身体にかゝわりあいといつたふうに、勿論、上告人はその間に、具体的、現実的な危険性、利害関係の対立のあることを確信し請求原因、準備書面を通じ種々主張してきているのであり、その主張の裏付け、立証こそが本訴の目的なのである。

然るに、この上告人の主張に対しては、何故か原審も第一審もその判決理由では全く触れず(理由不備)、具体的、現実的の利害の対立、紛争がないことを前提として論を進めておられるのである。理由不備、理由齟齬の最たるものである。

3 原審は「本訴請求の趣旨一の5、6等は一見具体的、現実的とみえるかのごとき請求であるが、本訴は元々上告人の本訴提起の背景に、現実的な紛争が存して、その司法的解決のために本訴を提起した訳ではなく、国民の一人として、日本国政府に防衛政策の転換を迫る趣旨で本訴を提起したところ、一審判決で事件性の欠を指摘せられたため、当審に於てはより具体的、現実的とみえる請求を附加したに過ぎず、本件訴訟の基盤となつている生活関係、本訴請求の各性質は、訴の変更の前後を通じて変化がないものと認めるのが相当である」と判示する。然し、原審判決も理由の冒頭で、右請求の趣旨の補足追加を訴状の請求の基礎と同一性があり、より具体化、分化したものに過ぎないとして容認している通り、原審のいう一見、より具体的、現実的とみえる請求の趣旨一の5、6等は、本来、訴状請求の趣旨に内包されていたもので、上告人が裁判所の理解を得やすいように、その一部分即ち、大事件の内の一部、小事件を引出してみせたに過ぎないのである。

このことは、要するに訴状の請求の趣旨は、大事件であり、請求の趣旨一の5、6等の集合体である。而して小事件が集合して大事件となると事件性が薄れ、遂には事件性を喪失するという原審の考え方には、基本的、根本的に矛盾、齟齬があると謂わねばならない。即ち、これによつてでも判るように、元々本訴請求は事件性、争訟性を有していたのであり、「余りにも大きなものが突然目の直前に現われると、現実的に判別し難く、周辺が見きわめ難いため、かすんで一般的、抽象的にボケて見えやすい」のと同じで、その具体的、現実的の本体が見えなかつたに過ぎないのである(例えば、百階建のビルの直下に立てば、目前は壁が見えるのみでビル全体の構造は判然せず、抽象的、一般的な物としてしか映らないであろう。他面、一階建の家ならば具体的、個別的なものとして映じるであろう。)

然し、大きなもの、大事件も高い処、山の上から眺めると一望でき、その本体、事件性が見極めうるのと同じで、本件も視点を、眺める立場を高処に置けば、小事件として一般通常事件として眺めることができ、取扱いうることは明瞭である。

斯くみてくると、本訴が具体的、現実的なのか、抽象的、一般的なのかの問題も、結局、判断する人の現点によつて別れ、変つてくるということである。而して、上告人はその立場、現点を真理の観点に、法律的、裁判的に裁判では憲法的次元に現点を置いて観、判断すべきことを強張したい。

憲法次元から眺めた時、被告国の軍備保有行為が如何に憲法上保障せられた上告人の権利を侵害しているかが具体的、現実的のものとして目に映じ捉えることができると確信する。

概要以上の次第で、原判決理由には根底に於て著しい理由不備、理由齟齬の違法がある。

(三) 原審判決は、病める、眠れる、麻痺した良心に従つてなされたもので、健康な正常な良心に従つたものとは云い難く、憲法七六条三項に違背する。

「有識階級の人々の何としても自分たちのお気に入りの思想と、それに基く生活を守り抜こうという願望は、行きつくところまできてしまつた。彼らはたゞなんとかして良心をくらまし、その声を圧殺するために嘘をつき、実に洗練されたやり口で自他ともに欺いているのである。つまり彼らは、良心の声に応じて生活を変えるかわりに、あらゆる手段を講じて良心を圧殺しようとしているのである」(トルストイ「神の国は汝等の衷にあり」北御門二郎訳より)

1 健康な良心と病める良心

憲法七六条三項は

「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているが、ここに規定するところの良心が正当な、健康な状態に在る良心、何らかの理由で病んだ、麻痺した、眠つた、所謂法律要語でいうところの耗弱状態乃至衷心状態の良心を意味しないことは明らかであろう。従つて、原審判決が仮りに良心に従つた判決であるとしても、その良心なるものが病み、麻痺させられた、或いは眠つた良心があるとしたら、それは右憲法にいうところの良心に従つたものとは到底言い難いであろう。

この意味で、上告人は明らかに原審判決は右憲法七六条三項に違背したものと信じる、成程、その点では悪意は無い。而し、遺憾ながら、その良心は、長年月の間に病み、麻痺させられ、惰眠しており、良心違背行為に反応する能力、機能、感覚を失つてしまつているのである。どうして斯る状態が発生するのであろう。所謂、良心の大衆的惰眠が。

2 良心の大衆的惰眠(エーベルハルネ)

別紙のとおり

3 原審の、第一審の裁判官の良心が、この大衆的惰眠の裡に陥つていなかつたと云えるであろうか。原審裁判官は、上告人の「良心の権利侵害排除請求権」に就ても、具体的、現実的の利害の対立が無いと判示される。被告国の憲法九条下での第四次(世界第七位)防衛力増強、納税等を通じてのそれに対する強制的協力要請とその実施、この被告国の行為が法治国の、特に法曹人としての良心を傷つけないのであろうか。良心は何ら痛むところがないと云われるのか。若し然りとすれば、その良心は戦後二〇数年間の被告国の施策のために徐々に徐々に病み、麻痺させられ、ついには惰眠におち入らしめられてしまつている状態にあると認めざるを得ないのである。現状に於て、痛まない良心、傷つかない良心(三島由紀夫は良心に堪えかねると叫んだ)は病んでいるのであり、正常な感覚を喪失しているのである。そして上告人は本訴で訴えているのである。被告国のなしてきた第四次までのこの軍備の増強はもはや上告人の法治国民として、法曹人として、弁護士としての良心の堪え得る限界を超えていると。

4 概要叙上の次第で、原審並に第一審裁判官が本件につき、争訟性、事件性が無いといわれるのは、窮極に於て自己の良心が如何に病み、麻痺させられ、惰眠しているかを自白、自供したものとも云い得るのである。その病状は瀝然と明白である。

而して、斯る良心に従つた判決は到底憲法七六条三項にいうところの良心に従つたものとは云い得ないのであり、原判決は此の点に於ても重大なる憲法違背がある。

(四) 憲法九条の意義並に解釈に就いての違背

“狂気の沙汰でない正気の沙汰とはなんであろう。武装宣言が正気の沙汰なのか……世界は今ひとりの狂人を必要としている。何人かが自ら買つて出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から脱出できない。……その歴史的使命を日本が果すのである”(弊原喜重郎)

1 憲法、法律の解釈は、制定議会の審議に於ける解釈説明に拘束されるということ。

このことは、憲法、法律解釈の原則である。然らずとすれば、国民を欺す以外の何ものでもない。憲法、法律の改正、制定に当り、その条文の解釈に就て釈明、説明がなされゝば議員によつてなされる改正、制定の賛、否の評決は、その釈明、説明を前提として説明された解釈を賛、否熟れかの判断の基礎としてなされることは明白である。そして三分の二以上或いは過半数で可決された憲法、法律がその後、評決の際と異る解釈が採られるとすれば、一体どういうことになるか、それこそペテンでありイカサマであり、国民を欺く以外の何ものでもない。私人間に於て斯様なことが許されないと同様、否それ以上に国家ともあろうものが斯様なことをしてよい筈はない、そして裁判所がこれを許してよい筈は無い。

2 憲法九条の解釈

憲法九条の解釈が前項の原則に則るべきは当然である。然るに響察予備隊、保安隊、自衛隊、そして現在世界第七位といわれる戦力を保有するに至つた被告国の、政府、自民党の解釈は全く詭弁以外の何ものでもない。自己等自らの良心をくらまし、国民を欺き、一般大衆の良心をくらまし、国民を欺き、一般大衆の良心を惰眠させるための手段、方法以外の何ものでもなかつた。上告人は、戦時中の天皇は神であり、神州は不滅にして神風が吹くとか、ガダルカナル敗退のあの詭弁、敗退でなく転進だという。そして日本は敗戦、いな終戦か。

戦後上告人は再び被告国、政府が上告人ら一般国民を欺くことはあるまいと信じた。然るに、この二十数年来の国会答弁での詭弁の繰り返し、再び上告人ら一般国民を欺罔して何処え連れて行こうというのであろう。今度の戦争は直ちに本土決戦、そして核兵器、広島、長崎の続編を演じようというのであろうか。一億国民の生命を賭して。何のために、お国のためか、お国のため、愛国心、それは悪党の用いる最後の常套手段とか。

日本えの侵略、その際の日本の持つ意味は、侵略のもつ意味は、何処の国が日本人を殺そうとして攻めてくるというのか。予想されるのは、ただ体制間の相剋のみである。資本主義体制、自由主義体制、社会主義体制、上告人も自由を最も好む。然し孰れにしても、生存を前提としての問題である。

上告人ら一般国民の、何千万の国民の生命を賭してまで護られなければならぬ体制が、価値が何処に、何に在るというのか。体制のためには、生命の犠牲にせよというのか、再び被告国、政府の行為によつて戦争の惨禍を蒙ることはもう真平だ。自民党政権を何時までも、資本主義体制を何時までも護持しようと欲するならば、上告人ら国民の生命を賭けて犠牲に供してでなく、自分達の財産を、地位を賭して、犠牲にして一般大衆の欲する社会政策を、社会福祉を、政治を行えばいいではないか。それこそが真に被告国の採るべき施策ではないのか。

憲法九条の文章を素直に読んで、誰が今日の自衛隊の存在を考え得るであろう。

憲法九条制定の際の国会における憲法九条の意味、解釈の説明は、自衛のための軍備を、軍隊を持つべさだと云つたのは共産党と、南原繁だけのみでは無かつたか。そして時の提案者政府は、吉田総理始め金森国務大臣、弊原国務大臣等の答弁は、解釈説明は、

「戦争抛棄に関する憲法草案の条項におきまして、国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせられるようでありますが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)、近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります」(内閣総理大臣吉田茂)

「有害無益なる防衛戦争是認の議論」憲法審議録(甲八号証)四一頁

「我々は今日、広い国際関係の原野に於きまして、単独に此の戦争抛棄の旗を掲げて行くのでありますけれども、他日必ず我々の後に続いて来る者があると私は確信している者である。……単に是は理念だけのことではありません。もう少し私は現実の点も考えて居るのであります、即ち、戦争を抛棄するということになりますと、一切の軍備は不用になります。軍備が不用になりますれば、我国が従来軍備のために費して居つた費用と云うものは是も亦当然不用になるのであります。斯様に考えまするならば、軍事費のために不生産的なる軍事費の為に歳出の重要なる部分を消費致して居る諸国に比べますと云うと、我国は平和的活動の上に於て極めて有利な立場に立つのであります」(国務大臣弊原喜重郎)(前審議録四〇頁)

「原案第九条の戦いを行わざる宣言、軍備を持たざるの宣言というものは、是は国際的なる約束としてやれば意義があるけれども、一国だけで国内法的に主張したつて弊害あるのみであつて、実益はないのじやないか。こういう風の趣旨を以て御質疑になつたと思うのであります。其の考え方は確に理由があると思います。人が寄つてたかつて初めて立派な事が行われるのであります。自分一人じや出来ないのだ、だからやらずに置こう、或は云わずに置こう、此の考え方が世界の秩序をして今日迄十分なる発達をなさしめずして平和に対する望みを遠ざからしめて居るのではなかろうか。あらゆる角度から本当に物を考えて、此の時日本が起つて、平和に対するハツキリした覚悟を示すということは、それこそ勇気を要することでありますけれども、其の勇気を要することを断行したのでありまして、人がやるまではやらないとか、人の振りを見てのみ我が振りを決めて行くという考え方は、斯くの如き根本の問題に付ては我々は執りたくない。斯う考えている次第であります」(国務大臣金森徳次郎前同一八頁)

「法九条に於て、第一項の冒頭に“日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し”と附加し、その第二項に“前項の目的を達するため”なる文字を挿入したのは戦争抛棄、軍備撤廃を決意するに至つた動機が専ら人類の和協、世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたのであります」(委員長芦田均、前同一〇頁)。

という風になされている。

尚、高柳賢三議員の「此の憲法の条項に依つて所謂攻守同盟条約、又所謂侵略国に対する共同制裁を目的とする国際的な取決め、国際条約と云うものを締結することは、憲法違反になると思いますが、その点はどうですか」との質問に対し、金森国務大臣は、

「当然に第九条第一項、第二項に違反するような形に於ける趣旨の条約でありますれば、固より憲法違反になると存じます」「第一項で正式に自衛権に依る戦争は抛棄しておりませぬ。しかし第二項に依つて実質上抛棄して居る、斯う云う形になります」(前同審議録四六頁)

と答弁している。

右は右審議録(甲八号証)中の憲法九条の解釈に就ての説明の骨旨とも思料される部分を抜書きにしたに過ぎないが、これに依つても、なお右甲八号証を検討すれば、どこから現在被告国によつて為され、これまでなされてきた憲法九条の解釈がでてくるのか呆れてものが云えない。

これが法治国と称する一国のなすことか。国民に“法と秩序”を説く政府のなすことか、現行憲法九条は、前記の内容説明のもとに、右の解釈を基礎、前提として、条件として採決され可決されたものである。

従つて、右審議の際に、自衛のための軍備、軍隊の保有は許されるというのであれば、当然但書が附されたであろうし、おそらく可決、承認されなかつたであろうことは戦争の惨禍に喘ぐ国民感情、その他当時の情勢、何よりも右審議会の雰囲気からして十分に現実性、合理性をもつて推測しうるところである。

憲法条項の解釈は、先づ文章自体から、次でその条項を定めた議会の解釈、説明に基いて解釈されねばならぬことは明らかである。ここに憲法解釈の原則があり、限界があるというべきである。従つて、その憲法条項が時代にそぐわぬとか、気に入らぬというのであれば、そのように考える人は改正運動をすべきであつて、詭弁、ゴマカシに憂身をやつすべきではない。

昭和二二年被告国、政府文部省の発行した中学生用教科書「あたらしい憲法のはなし」(甲四号証)の憲法九条の解釈は、正に右議会説明に則つた正解であり、昭和四八年九月七日の札幌地裁判決の“自衛隊は違憲の戦力”というのは、この意味で、まことに当を得たものであつた。而してこの判決に対する世論も殆どが右判決は極めて常識に合致するものとして賛同している。参考までに判決翌日(九月八日)の目についた新聞をひろつてみても、

「おそらく大多数の日本人は、いまの自衛隊が軍隊ではなく、戦力でもないという言い方が苦しまぎれであるということは知つている。その点福島判決は竹を割つたような明快なものだつた。……年々大きくなる自衛隊に合わせるため、国は法律専門家を集めて精緻な論理を作り上げるが、結局、常識からみれば、ますます不自然にみえてくるのは致し方ない、粉細工はどうにでも曲げれるとはいつても、無理をするとやはりポキンと折れる」(朝日新聞天声人語)

「“澄んだ目”田中角栄さん、とうとう長沼裁判で自衛隊は違憲という判決がでましたね、地方裁判所の判断であつて、まだ最高裁まで争う余地があるとしても、やはり政府として真剣に味わうべき判断だと思います。わたしどもが一市民の立場で、ごく素直に憲法九条の条文と自衛隊の現状を見くらべても、こりやおかしいぞ、と考えさせられる。イデオロギー抜きで澄んだ目でこの現実を見た時に“違憲”という印象をうけうる余地は大いにあります。そのような常識的な感じ方がこの判決にひそんでいると思いませんか。ただこれを“偏向判決”ときめつけて、現実を直視するのを避けてしまつては困ります。そんな態度では国民の共感を受ける政治は生まれません」(毎日憂楽帳)。

「日本国憲法の精神を体し、それらを虚心に読むならば、自衛隊が違憲であるという憲法判断は、むしろ常識だと思う。……現実のわが国の政治は、逆に昔の強国主義へと後退しているのではないか。“原点回帰”が流行語になつているが、帰るべき原点を取り違えている。……現憲法の精神を世界に発揚する努力こそ、現代の正義であり、理想への接近ではないか」(中日新聞、中日春秋)

と孰れも右判決解釈に賛意を表し、自衛隊違憲は国民の常識だと言つている。

而して、その後この判決に賛同する多数の憲法学者の見解が発表(法律時報、自衛隊違憲判決特集号、法学ゼミナー憲法と自衛隊等)されているが、小林直樹教授や、深瀬忠一教授らの正しい意味での憲法九条を守らんとする見解、その情熱は一入頭の下がる思いがするのである。

斯くしてみてくると、憲法九条が一切の戦力、陸、海、空軍の保有を禁止し、自衛戦争をも否定していることは自明の理である(尚、憲法九条解釈に就ては、原審準備書面、武力なき自衛権、横田喜三郎著、甲八号証審議録八〇頁三、自衛戦争の禁止、1、自衛のための戦争を禁ずる法的根拠、2、世界平和のための捨身の精神と覚悟の項御参照)。

尚、茲で特に注意して置きたいのは弊原国務大臣が、日本の軍事費が憲法九条により不必要になると説明しているのに、金森国務大臣が憲法九条と国際条約との関係について触れ憲法九条に悖る条約を違憲としている点である。

3 憲法九条の歴史的意義

前述憲法九条制定に力を注いだ弊原喜重郎氏は「狂気の沙汰でない正気の沙汰とはなんであろう、武装宣言が正気の沙汰なのか。……世界は今ひとりの狂人を必要としている。何人かが自ら買つて出て狂人とならない限り、その歴史的使命を日本が果すのである」と憲法九条の歴史的価値を評価している。明治時代に於ても、キリスト教的社会主義者であつた安部磯雄は「もし平和が人道であるならば、平和を宣言して、そのため国が亡んでも悔ゆるにおよばないではないか」と云い、同じく社会主義者であつた堺利彦は、「戦争は人類の最大罪悪なり」と題して、良心的反戦の立場から自衛戦争をも否定して絶対的な無抵抗主義を唱え「今の国際関係では一方が軍備を撤しても一方が承知せぬ。先方が暴力を以て我々に迫る時にはどうするかとの議論が必ずあるでありませう。それは個人間におけると同じことで、既に侵略の念を絶ち、既に軍備を撤する以上は、抵抗力の無い所が其国の名誉で、防衛の無い所が其国の自尊であります」と主張して憲法九条的条項の必要を説いている。又キリスト教の立場から、内村鑑三は、日露戦争に反対し、弱肉強食ではなく“愛と正義”とが天然の法則であり、神の摂理であるとして非戦論こそ国家生存の倫理であり、論理であるとしたのである。憲法九条に就ての平和的生存権の論理を想起させるものがある。ラツセル、アインシユタイン等は一九五七年のパグウオツシユ会議に於て「私達は、すべて人類に戦争を廃絶するか、さもなければ破滅に導かれるにちがいないということを確信する……」と警告している。

「平和の価値はいまや人類の理性が求める最も基本的な目標となつている。日本国憲法は右の理性の要求に最も適合する平和主義と国際協調の原理を国是として憲法の基柱に据えたのである。国の生き方として、相抗争する両陣営の対立を前提としつつ、しかも武力を以て紛争を解決する旧来の国家理性の方法を一擲したのである。それは唯一の原爆の被害国として、力の論理や、恐怖の均衡によつては真の平和は保ち得ないことは肝に銘じた国民の真意に根ざしている。この恒久平和主義を徹底した戦争抛棄の方法と結びつけ、第九条という画期的な非武装主義の規定を持つに至つたこと、これが日本国憲法の最大の特徴である」(小林直樹、憲法を読む)。

憲法九条、それは人類の有史以来、その理性と良心が希求したものであり、その理念、理想の制度化である。而して、これが実現のためには何百万、何千方の人々の死の犠牲が払われた。そして、それは他面、この核時代に於て、日本民族が地球上に生き残るための最善の戦略であり、手段、方法でもあつた。

「私は“菩薩憲法や”と思つたものです。日本は永久に戦争を放棄するという。全世界が戦争放棄を憲法に謳えるような世の中にしたいと思うのです、人間の業、慾望がそれをどんなに邪魔しているか、そのことをつくづく思わずにはいられないこの頃です。(高田好胤、価値ある人生を求めて)。

憲法九条、それは余りにも、この地上に於ては高貴な華であろうか。

4 憲法九条の意義、解釈の違背

以上述べたところにより、憲法九条の設けられた趣旨、理念、並びにその歴史的意義の概要は明らかになつたことと思う。而して、原審が本訴を事件性、争訟性がないとして審理拒否の姿勢、態度を採られた。その強引な、前述理由不備、理由齟齬の論法の由つて生じた背景には、この憲法九条が設けられた前述の趣意、理念、そして、その人類史的意義の理解に欠け、その正当な価値評価、解釈を誤つた結果に帰因していると考えられるのである。

真に人類を軍拡の蟻地獄から救出し、世界平和のために捨身の精神と覚悟で以て樹立せられたこの憲法九条の積極的意義を真に理解して居られたならば、本訴に対してどうして第一審や原審の如き態度、判断が採り得られるであろうか。この憲法九条の有つ崇高な理念、その精神、これに反し現実今日まで被告国によつて実施せられてきた転進、逆行の軍備増強、それに支出される兆を超える軍事予算、上告人ら国民が憲法九条で保障せられた軍備なき環境権、軍事費不要の福祉国家は一体何処にいつたのか。

これ程、現実的、具体的に日本国民全部の人権が最大限、最高限に被告国の違憲行為、不法行為により侵害された例が歴史上嘗てあつたであろうか。

原審が本訴提起に、上告人と被告国との間に具体的、現実的な科学の対立、紛争が無いと断定された発想の根底には、憲法九条えの理解の欠如と憲法九条次元えの思考の高揚が欠けていたとしか云いようが無い。

結論に於て、憲法九条の意義に違背し、その解釈を誤つたものというべきである。

第三、裁判所の戦争防止責任と憲法八一条違背。

戦争防止責任、再び上告人らは日本国民を戦争の惨禍にさらしめない責任、それは日本国民が総意を以て裁判所に課した最大、最高の責務である。

裁判所の最大責任は、戦争防止である。それは憲法上の裁判所の最高責務である。

現行憲法は戦争防止のためにつくられた。憲法はこのことを前文でハツキリ明言する。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し……この憲法を確定する」と。

憲法確定の目的は、趣意は、政府の行為によつて再び戦争の惨禍を起さしめないためであると。そして、そのための手段として、方法として、憲法は、被告国、政府に軍備を、軍隊を保有することを禁止した。これこそ、政府が、被告国が戦争を起すことのできない最良の手段であり、方法であるから。そして、被告国が政府が、これに違反、違背しないよう監視人として、番人として裁判所を置き、これに違憲立法審査権を付与した。被告国が、政府が多数の横暴で違憲立法をして軍備、軍隊を持つことのないようにと、従つて、裁判所に与えられた違憲立法審査権は真に国民が、被告国が、再び軍備、軍隊を保有することのないようにとそのために裁判所に与えた最高の武器である。

違憲立法審査権は真にこのために在ると云つても過言ではない、この点に関する第一審判決の論理の如きは現行憲法の制定の意義も、目的も全く理解されていない。そして何のために国民から裁判所に違憲立法審査権が付与せられたかも全然理解されていないところの憲法不在、憲法無視の独見以外の何ものでもない。

国民が憲法八一条で裁判所に与えた違憲立法審査権は、真に政府が、被告国が再び軍備を保有し、戦争の惨禍を上告人ら国民に与えないようにと、これを防止し、チエツクするために附与した権限である。

裁判所の現行憲法上の存在意義、存在価値は正に此処に在るのである。確実に近づきつゝある戦争防止の責任は裁判所である。されば裁判所こそ上告人ら国民を戦争の惨禍から守る防波堤であらねばならなぬ。

翻つて、原審、第一審裁判所の本訴に対する反応、態度、対広の仕方をみるとき、この憲法の趣旨、目的が前述憲法八一条の設定の本来的目的、意義が理解されていると云えるであろうか。全く理解されていないという外ない。従つて、原審判決は、この意味に於て、憲法八一条の制定の趣旨、目的に違背したと云つても決して過言ではない。

第四、結論

(一) 再び過ちを犯してはならない。

護国神社の前にぬかづいて戦死者の声を、英霊の声を聞くがよい。“わし達は欺されたのだ、国に、政府に”被告国はこれに対して、どうこたえるのか。何として詫びるのか。これに報ゆる真の道は何なのか、日本を捨てた小野田さんは云う「キツネとタヌキのだまし合いなら了解する。しかし国家がだましたんだ。その責任はどうとるのか」と(甲五〇号証)

(二) 児島惟謙が神の坐に居る限り“護法の神”として憲法教科書に挙げられる児島惟謙は何をしたのか。たゞ法を遵守し、法を護つたのみではないか。

憲法七六条三項は、

「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」

と規定し、

同九九条は、

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

と規定している。

裁判官として当然の職責を果したのみではないか。

その裁判官として当然のことをした児島惟謙が、何故護法の神として明治以来未だに憲法教科書に挙げられねばならないのか。

裁判所は、裁判官諸氏は、このことを恥と、恥辱と感じられないのか。成程、最高裁の建物は立派になつた。然し、この児島惟謙が神の坐に居る限り、最高裁は、司法権は、如何に建物を立派にしても、国民の目にはそれは権力者に仕える侍女の着飾つた姿としてしか映らないであろう。

上告人は本書の最後に衷心より念じて止まない。

児島惟謙が神の坐から引づり降ろされる日、そして最高裁が正義の殿堂として、真に国民の人権擁護の殿堂として光り輝く日の一日も早く来らんことを。

(尚、上告人の経歴、思想背景等に就ては甲五四号証御参照)。

以上

(添付甲号証目録及び添付書類省略)

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